
幕末
長州五人組の密航と七卿の都落ち
1863年(文久3年)
品川の公使館襲撃に失敗し、一転して横浜の英国商館に忍び込んで発見されるも、商館長の計らいで密航に成功した
いまだ髷のある頃の写真
1864年の2度目の衝突時
品川の公使館襲撃に失敗し、一転して横浜の英国商館に忍び込んで発見されるも、商館長の計らいで密航に成功した
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1863年(文久3) 長州五人組の密航と七卿の都落ち
前年(1862年)12月に江戸のイギリス公使館を襲撃した伊藤俊介(後の初代首相、伊藤博文)ら長州五人組は、1863年に横浜の開港場に足を踏み入れ、夜半に外 国人居留地のイギリス商館(英一番館、ジャーディン・マセソン)に髷(まげ)を切り落として忍び込んで海外密航を試みた。あいにく見つかって断られ、ならば腹を切ると居直ったことで商館主の計らいで香港経由にてイギリス密航に成功し、現地でロンドン大学に通うこととなった。薩摩藩の五代才助(後の五代友厚)も上海に密航視察を敢行した。一方、国内では尊王攘夷派の薩摩藩・長州藩の両藩が外国軍の報復砲撃を受ける事態となり、一時的に下関(山口県下関)の砲台が占拠される事態となった。8月には7人の攘夷派の中心にあった京公卿が、長州藩の力を借りて幕府から政権奪取を図る政変(八・一八の政変)をおこしたが失敗した。京公卿らは長州藩を目指して西に落ち延び、神戸村(兵庫県神戸市中央区)から兵庫(同兵庫区)で楠正成(1294〜1336、北朝の後醍醐天皇に味方して南朝と戦い戦死した忠臣の武士)の墓(のちの湊川神社)に参拝して兵庫湊から小舟に乗船して長州藩を目指して落ち延びることとなった(七卿の都落ち)。追い詰められる幕府は、一度は開港した横浜港を再び鎖港する奇策を思いつき、12月に「横浜鎖港談判使節団」(第二回遣欧使節)が出航したが、渡航国で相手にされず、観光視察旅行を行って翌年に帰国することとなった。
年表
【1863年(文久3)】
・3月 将軍家茂が和宮を江戸に残し上洛
・4月 将軍が5月10日を以て攘夷期日と上奏
・5月 幕府が生麦事件の賠償金を英国側に支払う
長州藩が下関沖の米国商船・オランダ軍艦を砲撃
長州藩の伊藤・井上らが横浜から英商館の手引きで密航
・6月 米艦・仏艦が下関を砲撃
・7月 英艦が薩摩の鹿児島湾を砲撃
・8月 八・一八の政変/七卿の都落ち
大和国(奈良県)で天誅組の乱
・10月 但馬国(兵庫県)で生野の変
・12月 「横浜鎖港談判使節団」(第二回遣欧使節)出発
《世界の動き》
・1863年 徳川幕府がスイスと修好通商条約調印
・1863年、アメリカで南北戦争(1861〜1865)戦争中
日本と世界
時の政治
第14代徳川将軍・徳川家茂(在職1858~1866)