
幕末
長州征伐と薩長同盟と新体制
1866年(慶応2年)
大半の出征兵士は戦うことなく帰藩した
政情不安から物価が騰貴し、薩摩藩が暗躍
大半の出征兵士は戦うことなく帰藩した
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1866年(慶応2) 第二回長州征伐と薩長同盟と新体制
廃止された神戸海軍操練所に代わり、江戸に海軍伝習所が開設され1月と同じ頃、京の薩摩藩邸・同藩家老の小松帯刀(こまつたてわき)邸で、薩摩藩の西郷隆盛・小松帯刀・ 長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)とが会談し、『今後の幕府の長州征伐に際し、薩摩藩が長州藩を物心両面で援助する』と約束し、また、『長州(山口県)で戦争が始まった場合は、薩摩藩が京・大坂に出兵して幕府軍と戦い、薩摩藩は長州復権のために朝廷工作を行うことを約束する』との内容の覚書6カ条からなる盟約が成り、仲裁した土佐藩の脱藩浪士・坂本龍馬が証人として裏書きし、ここに薩長同盟が事実上締結されることとなった。6月に再びの長州征伐(第二回長州征討)が命じられたが、幕長戦争に薩摩藩は約束どおりに動かず、7月に大坂城で14代将軍が急死すると、翌8月 には長州征伐は打ち切りとなってしまった。12月には盟約に従って九州の大宰府にかくまわれていた三条実美(さねとみ)ら都落ちした朝廷の京都公卿と薩摩藩の西郷新吾 (後の軍人の西郷従道、西郷隆盛の弟)と大山弥助(後の軍人の大山巌)が面談し、この月に「朝敵」とした当の孝明天皇が崩御したこともあって、薩長盟約に従い、 長州藩の「朝敵」の汚名はそそがれ、長州藩は復権に成功した。京都で禁裏御守衛総督の職にあった徳川慶喜が15代将軍に就任すると、翌1867年(慶應3)には新天皇(明治天皇)・新将軍(徳川慶喜)の新体制が奇しくもスタートすることとなった。
年表
【1866年(慶應2)】
・1月 幕府、横浜に海軍伝習所を開設
薩長同盟の密約成る
・6月 第二回長州征伐始まる(幕長戦争に薩摩藩は
出兵拒否)
・7月 徳川家茂14代将軍が大坂城で死去
日伊修好通商条約調印
・8月 第二回長州征伐は打ち切り
・11月 福沢諭吉の渡米
・12月 大宰府預かりの三条ら七卿が薩摩藩の西郷
新吾(西郷隆盛の兄)、従兄弟の大山弥助と
会見し復権する
孝明天皇が崩御
禁裏御守衛総督の徳川慶喜が第15代将軍となる
《世界の動き》
・1866年、日本・イタリアが「日伊修好通商条約」調印
・1866年、日本・ベルギーが「日白修好通商条約」調印
・1866年、アメリカで公民権法が成立(黒人取締り法の廃止)
・1866年、プロイセンとオーストリアが戦争(普墺戦争)
日本と世界
時の政治
第14代徳川将軍・徳川家茂(在職1858~1866)
第15代徳川将軍・徳川慶喜(在職1866~1868)