
明治
維新政府の始動①
1868年②(慶応4/明治元年)
大坂は今の大阪
火の手のあがった鶴ヶ城を見て主君もこれまでと早合点して自害した若年藩士たち
大坂は今の大阪
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1868年①(慶応4/明治元)維新政府の始動❶
諸外国が待ちに待った神戸港が開港したのは新暦1月1日(旧暦1867年12月7日)だった。突然の兵庫(神戸市兵庫区)から神戸村(神戸市中央区)への開港場変更 で居留地造成工事は忙しく、また、開港直後の準備で外国人たちも忙しい最中だった。ところが、新年早々に鳥羽伏見の戦いが始まって戊申戦争が始まると、京に向かう西国諸藩の通り道にあたる西国街道筋の神戸村で京に向かう備前藩(岡山藩)の隊列を複数のフランス人が横切り、備前藩士が発砲したことで、外国側が神戸港と神戸村を含む周辺3村を占拠する事件(神戸事件)が発生した。その混乱の地に、偶然、京に向かうために海路で弁天浜(今の神戸ハーバランド付近)の船着場に上陸した下級長州藩士の伊藤俊介(俊輔、後の博文)が居合わせて事情を知り、京の新政府に人をやり報告、王政復古で復権したばかりの元七卿で新任の外国事務総督・東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)から事態収拾を託され、得意の英語で外国側と折衝して、維新政府の最初の外交事件を解決した。伊藤は東久世から維新政府の参与兼外国事務掛を命じられ、2月に東久世が兵庫裁判所(兵庫県の前身)の総督に就任すると、新開港場のため、村から急発展した神戸在任の外国事務局判事に取り立てられることとなった(伊藤博文の出世の始まり)。また、将軍が大坂城(大阪城)から江戸に逃げ帰ったことで、出島のある長崎からも幕府役人が離反したので、出島行政が渋滞、急遽、長崎を接収すべく維新政府から元七卿の沢宣嘉(のぶよし、九州鎮撫総督)が参謀の長州藩の井上馨と共に京より下り来て仮政府を設置、強硬な攘夷
論者で国学者の沢のもと、長崎のキリスト教徒500人以上が逮捕監禁されたことで、忽ち、長崎在住の諸外国人の間で大きな国の外交問題となった。この時、致遠館でフルベッキからキリスト教の知識を得ていた大隈重信が、維新政府から急遽、鎮撫総督の参謀/参与に任じられたが解決せず、長崎の耶蘇教問題の解決は喫緊の課題となり、維新政府の命で、大坂の本願寺別院にてシーボルト(息子)を通訳にイギリスのパークスら諸公使と談判、解決には到らなかったが、談判で大隈は内外人から一目を置かれるようになった(大隈重信の出世の始まり)。まもなく東京にできた新政府に外交手腕を買われて上京し、キリスト教問題で明治政府の外交官となった大隈は、旧幕府が残した諸問題を解決、築地梁山泊と呼ばれた大隈邸の近くに住む伊藤博文と大隈重信は意気投合し、「旧物の破壊・百事の改革」を合言葉に明治維新の推進役となった。
年表
【1868年(慶應4・明治元)】
・1月 鳥羽伏見の戦い(戊申戦争のはじまり)
・2月 維新政府 駅逓司を設置
・3月 西郷隆盛・勝海舟の談判
・4月 江戸城開城
・5月 上野戦争
・7月 江戸が東京と改称
・8月 幕府の榎本武揚が江戸湾から船で脱出
・9月 鶴ヶ城(会津城)が陥落
維新政府 「明治」と改元
天皇が京より東幸
・12月 天皇が東京から西京(京都)に還幸
《世界の動き》
・1868年、ロシア帝国がポーランドを併合
日本と世界
時の政治
第15代徳川将軍・徳川慶喜(在職1866~1868)
第122代天皇・明治天皇(睦仁、在位1867~1912)