
明治
法律制度の誕生
1880年(明治13年)
6月-7月に山梨県・三重県・京都
テキスト本文
1880年(明治13) 法律制度の誕生
西南戦争後の戦後インフレと投機熱も冷め、1880年(明治13)の国内経済は恐慌状態となった。経済の苦境に国民の関心はおのずと政治にむかうこととなり、4月には早期の国会開設の請願書が元老院にだされたが、元老院(有栖川熾仁親王・議長)での議論は低調で、同月には自由民権運動を抑え込む「集会条例」が太政官(三条実美)から布告され、さらに7月には日本最初の近代法として刑法・治罪法(刑事訴訟法の前身)が太政官から公布され、1882年(明治15)1月1日に施行となった。ようやく10月になって10年後(明治23年)に国会を開設するとの詔が出されるに至った。代言人(今の弁護士)規則の改正により法資格試験が厳格化されたこの年、私立の夜学の法律学校が続々と設立され、4月にボアソナード(日本近代法の父)に学んだ門下生が創立した「東京法学社」(のち東京法学校、現・法政大学)、9月に創立した「専修学校」(現・専修大学)に続いて、翌1881年(明治14)1月には、やはりボアソナード門下生3人が創立した「明治法律学校」(現・明治大学)、1882年(明治15)10月には大隈重信が関与して「東京専門学校」(現・早稲田大学)、さらに1885年(明治18)7月には「英吉利法律学校」(現・中央大学)が創立され、関西でも1886年(明治19)にボアソナードの薫陶を受けた法律家 12人が寺に集まり、「関西法律学校」(現・関西大学)を創立した。
年表
【1880年(明治13)】
・2月 県令会議の開催
・4月 集会条令
国会開設の請願書が元老院に出される
・7月 刑法・治罪法が公布(施行は明治15年1月1日から)
・10月 10年後(明治23)の国会開設の詔が出される
《世界の動き》
・1880年、日本政府がソウルに日本公使館を開設
・1880年、アメリカと清国(中国)の間で通商条約・
移民制限条約が締結される
・1880年、オーストラリアでシドニー万博に続き、メルボルン
でメルボルン万国博覧会が開催
日本と世界
時の政治
第122代天皇・明治天皇(睦仁、在位1867~1912)
太政大臣 三条実美