
明治
政変とデフレ経済
1881年(明治14年)
陶磁器の展示
テキスト本文
1881年(明治14) 政変とデフレ経済
沈滞する経済状況を背景に、3月には第二回内国勧業博覧会が上野公園で始まり、翌4月には殖産興業政策の一翼を担う農商務省が設置されたが、西南戦争の巨額支出で立ち行かなくなった政府は、かねて知藩事として財政再建に実績があった松方正義を大蔵卿に起用して、紙幣整理・緊縮財政の徹底に加えて増税を断行した(松方デフレの始まり)。また、同時に積極的に官有物を民間に払い下げして財政の帳尻合わせに躍起となったが、北海道の官有物の払い下げに関し、払い下げる開拓使長官・黒田清隆は鹿児島県人、払い下げを受けた大阪の関西貿易会社や名前が出た五代友厚らも鹿児島県人で、6月には「開拓使官有物払い下げ問題」が政治問題として浮上し、苦境にあった国民の厳しい視線が政治にむけられた。10月にようやく「国会開設の詔」がだされたが、ドイツ流立憲君主制をモデルとした政治体制を是とする政府本流にあった伊藤博文、岩倉具視らの保守派が、政敵の筆頭参議の大隈重信の追い落としに成功、大隈に請われて統計院にいた尾崎行雄も退官するなど自由民権派を一掃した(明治 14年の政変)。11月には板垣退助が「自由党」(日本初の近代政党、1881~1884)を結成、翌年の1880年(明治 15)3月には大隈重信が近代的な立憲主義の国家建設を目指して「立憲改進党」(1882~1896)を結成した。
年表
【1881年(明治14)】
・3月 第二回内国勧業博覧会(上野)始まる
・4月 農商務省が設置
・6月 開拓使官有物払い下げ事件が問題化
(後に太政官布告で払下げが中止に追い込まれる)
・10月 議会開設の勅諭
大隈重信が維新政府から去る(明治14年の政変)
・11月 自由党(板垣退助・総理)が結成
《世界の動き》
・1881年、ハワイ国王の第7代国王カラカウアが来日
・1881年、ドイツ・オーストリア・ロシアが秘密条約締結
・1881年、セルビアがオーストリア=ハンガリー帝国の植民地
となる
・1881年、南アで英とトランスヴァール共和国の間で第一次
ボーア戦争(1880年12月〜)が勃発、イギリスが
敗北
日本と世界
時の政治
第122代天皇・明治天皇(睦仁、在位1867~1912)
太政大臣 三条実美