
明治
自由民権運動
1884年(明治17年)
当時の外国人の評では、日本人はよくクルクル回るという評だった
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1884年(明治17) 自由民権運動
1883年(明治16)8月に憲法調査で渡欧していた伊藤博文は、条約改正のためには欧米と肩を並べることの大切さを痛感して帰国した。11月に鹿鳴館が開館して鹿鳴館時代はじまるも、翌1884年(明治17)に伊藤博文は憲法制定取調局を設置したその3月に、全国各地で暴動がおこった。6月に鹿鳴館でダンスの練習が開始され、7月に華族令が制定されたが、深刻なデフレ不況を背景に、5月に群馬県で自由党急進派が困窮農民と共に蜂起した(群馬事件)。8月には福島県で県令の三島通庸(つうよう)と県の土木工事の絡みで県内の自由党員と衝突(福島事件)、三島が県令を兼任する茨城県でも、自由党員が三島県令暗殺を謀り、失敗して加波山神社にたてこもる事件(加波山事件)が9月に勃発、10 月に埼玉県秩父地方で急進的な自由党員の主導で借金苦の数千人の農民が高利貸しらを襲撃(秩父事件)、軍隊が出動するに及んで「自由党」は解党となった。さらに12月に名古屋では、元自由党員が長野県飯田の同志と連携し、名古屋鎮台を襲撃(飯田事件)、大阪では元自由党員が自由民権運動と朝鮮の内政改革を一挙に実現しようとする大阪事件が発覚するなど自由民権 運動は、政府転覆を図る過激なものに発展した。
年表
【1884年(明治17)】
・2月 紀元節が賑やかに
・3月 伊藤博文が憲法制定取調局を設置
全国各地で暴動が起こる
・6月 鹿鳴館でダンスの練習開始
・7月 華族令が制定
・8月 大阪事件が起こる
・10月 秩父地方で暴動事件
《世界の動き》
・1884年、ハワイ王国と日本の間で官約移民契約が成立
・1884年、フランスがカンボジア国を植民地化
・1884年、ベトナム・南シナ海をめぐり中国とフランスが戦争
(清仏戦争、1884〜1885)を開始
・1884年、ソウルで政権抗争、日本公使館焼かれる
(京城事変、甲申政変)
・1884年、南アフリカのトランスヴァールで金鉱山発見
・1884年、アフリカの植民地支配をめぐり、ビスマルク
独首相の提唱で「ベルリン会議」開催
・1884年、アメリカがハワイ王国(1795〜1893)から
軍港としてパール・ハーバーを租借
・1884年、アメリカでニューオリンズ万国博が開催、日本も
参加し、農商務省の担当官から新聞記者ラフカディ
オ・ハーンが日本文化の説明を受ける
日本と世界
時の政治
第122代天皇・明治天皇(睦仁、在位1867~1912)
太政大臣 三条実美