
明治
鹿鳴館時代の終焉
1887年(明治20年)
(建物は後に移設後に1940年解体)
上流階級の乱痴気騒ぎが報じられて鹿鳴館外交にかげりが生じる
徳富蘇峰の民友社の発刊
(建物は後に移設後に1940年解体)
テキスト本文
1887年(明治20) 鹿鳴館時代の終焉
1887年(明治20)4月には伊藤博文の首相官邸で大仮装舞踏会が開催され、大いに盛り上がることとなったが、羽目をはずしたその様子を新聞がスクープ報道し、国民から非難が続出した。このスキャンダラスな報道に醜聞が多い伊藤博文への国民の反発は、鹿鳴館時代の終焉を意味し、9月に井上馨外務大臣の条約改正が失敗に終わると、鹿鳴館外交は挫折することとなった。国会開設にむけて自由民権運動は盛り上がりをみせ、政府は12月に「保安条例」を布告し、予防的に、星亨・尾崎行雄・中江兆民・川上音二郎らの論客、570人の言論壮士を皇居外三里(約12キロ)の地に追放した。 高知県人の片岡健吉ら16人は条例の不当を理由に拒んだことから、禁固3年に処せられ、あわせて「新聞紙条例」「出版条例」も改正され、政治言論活動はさらに抑圧された。条約改正問題で挫折直後の翌1888年(明治21)2月には政府の抱える最大の懸案事項の不平等条約の改正問題の解決には、たとえ政敵でも大隈重信の助力が必要との伊藤博文の判断で大隈外務大臣が誕生した。
年表
【1887年(明治20)】
・4月 首相官邸で大仮装舞踏会に非難続出
黒田清隆内閣が組閣
・9月 条約改正問題で挫折(鹿鳴館時代の終焉)
・12月 保安条例が公布
《世界の動き》
・1887年、フランス領インドシナが成立、ベトナム・ラオス・
カンボジアの3国が「仏領インドシナ(1887〜
1954)」としてフランス植民地となる
日本と世界
時の政治
初代首相・第1次伊藤博文内閣