
大正
日米密約とロシア革命
1917年(大正6年)
後に家族全員が殺害され、ロマノフ王朝が滅亡
米が日本の中国における特殊権益を認め、両国の領土保全・中国における門戸開放・機会均等を相互承認した(1917年11月にワシントンD.Cにて)
テキスト本文
1917年(大正6) 密約とロシア革命
第一次世界大戦中の1916年(大正5)、日本では10月に軍人政権の寺内正毅内閣が組閣、軍部の政権に対抗して護憲三派(立憲同志会・中正会・公友倶楽部の一 部が合同して結成、尾崎行雄、浜口雄幸、若槻礼次郎らが加わった)が大同団結して「憲政会」(総裁・加藤高明)が誕生した。一方、海外では同年5月、イギリス・フランス・ロシアの三国首脳が帝政ロシアの改称した首都のペテログラードに集まり、大戦後のオスマン帝国の領土分割について話し合い、イギリスが現在のイラク南部・クウェート・サウジアラビア東部・イスラエル・パレスチナ・ヨルダン・シリア南部を、フランスがシリア北部・レバノン・イラク北部を、ロシアは黒海沿岸を勢力圏とする密約をとりきめた(サイクス・ピコ協定)。ところが翌1917年(大正6)に首都ペトログラードで食糧危機に端を発した労働者のゼネストが起き、鎮圧に向かった軍隊が労働者に同調して革命に発展、ニコライ2世が退位して、3月にはロマノフ王朝が崩壊した(ロシア革命の三月革命)。スイスに亡命していた活動家レーニンが帰国し、レーニン率いるボルシェビキが武装蜂起して政権奪取に成功して「ソビエト政権」(世界初の社会主義政権)を誕生させた(11月革命)。ロシアは翌1918年(大正7)3月に敵国ドイツと休戦協定を結び、戦線から離脱してしまった。かたや、日本政府は、大戦中のこの年の11月、 ワシントンで特使の石井菊次郎がアメリカのランシング国務長官と交渉し、中国の門戸開放と領土保全を確認する「石井ランシング協定」でアメリカのハワイ領有の追認の見返りに、中国における日本の既得権益をアメリカ国に認めさせることに成功した。 やがて参戦したアメリカ兵が中国大陸から持ち込んだ「スペインインフルエンザ」(スペイン風邪)が戦地で大流行し、1919年(大正8)に戦争は休戦となり、「ヴェルサイユ条約」が締結されて終結した。足かけ4年に及ぶ第一次世界大戦でオスマン帝国は崩壊、帝政ロシアとともに、オーストリア=ハンガリー帝国、ドイツ帝国もキール軍港の水兵の反乱に端を発した「ドイツ革命」で崩壊した。1920年(大正9)に英仏は密約どおりに委任統治領を獲得し、同様に密約したパレスチナの 地はイギリスが統治することとなったが、ユダヤ人の 国家建設を約束した「バルフォア宣言」(1917)は反古となり、トルコ・シリア・イラク・イランに住むクルド人(国家をもたない最大の民族)の国家建設の悲願もかなえられることはなかった。
年表
【1917年(大正6)】
・1月 中華民国に日本の銀行が融資(西原借款)
・3月 ロシア革命の勃発でロマノフ王朝が滅亡(三月革命)
・4月 衆議院議員総選挙
・9月 金本位制が停止
・11月 石井ランシング協定締結
《世界の動き》
・1917年、第一次世界大戦(1914〜1918)継続中
ドイツ、無制限潜水艦作戦を宣言
・1917年、アメリカが4月に対独参戦し、第一次世界大戦に参戦
・1917年、8月に中華民国がドイツに宣戦布告
・1917年、ロシア、「十一月革命(10月革命)」でソビエト
政権が樹立、ドイツと単独講和(ブレスト・リト
フスク条約)して戦線から離脱する
・1917年、広州に中華民国軍政府(孫文・大元帥)が成立
日本と世界
時の政治
第17代首相・第2次大隈重信内閣
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/17.html
第18代首相・寺内正毅内閣
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/18.html
第13回衆議院議員総選挙(4/20)