
大正
ワシントン軍縮会議・南洋庁と中国
1922年(大正11年)
スイス・ジュネーブ
1922(大正11)
スイス・ジュネーブ
テキスト本文
1922年①(大正11) ワシントン軍縮会議・南洋庁
1921年(大正10)7月に上海のフランス人租界にて、コミンテルン(国際共産主義組織)の主導にて湖南省・長沙の毛沢東ら中国各地(北京・上海・広東・湖北・湖南・山東)と日本とパリの中国人で結成された共産主義組織を糾合する形で12人(もしくは13人)が集まり、中国共産党の「第1回共産党大会(一全大会)」が開かれた。 11月には日本に亡命していた孫文が広州(広東省広州市)に戻り、軍政府を樹立し、1922年(大正11)5 月に軍政府を廃して正式に「中華民国政府」を樹立し、また、夏には中国共産党に周恩来(後の首相)が入党した。一方、同じ1922年(大正11)の2月には、大戦後の懸案事項となっていた「ワシントン軍縮会議」が決着、駐米大使の幣原喜十郎(戦後の第44代首相)が全権として参加して批准した条約では、戦艦の保有総トン数が 英米を10として、日本はその6割とされ、軍部の中に不満が充満することとなった。3月から東京・上野公園で「平和記念東京博覧会」が始まったが、会期中4 月には、太平洋のミクロネシアの南洋群島を統治する 「南洋庁」(1922〜1939)が設置され、同時に「トラック支庁」(モエン島、デュロン島、トル島ほか245島を所管)「サイパン支庁」(サイパン島・ロタ島・テニアン島ほか14島を所管)「ヤップ支庁」(ヤップ島ほか85島を所管)「パラオ支庁」(パラオ本島、アンガウル島ほか109島を所管)「ポナペ支庁」(ポナペ島、クサイ島ほか138島を所管)「ヤルート支庁」(ヤルート島・クェジェリン島ほか32島を所管)の6支庁が設置され、島民学校を南洋庁学校と改称して日本語教育を開始、その後の5月にようやく中国の山東省から、8月にはロシアのウラジオストクから日本軍は撤兵することとなった。
年表
【1922年(大正11)】
・3月 平和記念東京博覧会(上野公園)始まる
・5月 日本軍が山東省から撤兵
・6月 高橋内閣が総辞職 5つの内閣で海軍大臣を歴任の
加藤友三郎が内閣組閣
・8月 日本軍がウラジオストックから撤兵
・11月 アインシュタイン博士の来日
《世界の動き》
・1922年 ワシントン海軍軍縮条約の調印
・1922年、ソビエト社会主義共和国連邦(1922〜1991)
が成立
・1922年、中国に関する9か国条約に調印
(米・英・仏・伊・蘭・ベルギー・ポルトガル・日本
・中国が中国の主権、独立、領土保全、機会均等など
を約した)
・1922年、ムッソリーニがイタリア首相に
・1922年、アイルランドの南部26州が「アイルランド自由国」
として事実上の独陸
日本と世界
時の政治
第20代首相・高橋是清内閣