
昭和(戦前)
金融恐慌
1927年①(昭和2年)
天皇の勅語の最中に挿絵を描いたと問題に
神社境内で破綻銀行の預金者たち(1927)
テキスト本文
1927年①(昭和2年)金融恐慌
1926年(昭和2)2月に大正天皇の大葬の礼が新宿御苑で行われ、3月に昭和改元後初の第52回議会の予算委員会で、震災手形(期日繰り延べの特例手形)を多額に保有する銀行名の公表を執拗に迫る野党(立憲政友会)に対し、答弁に追われた与党(憲政会)の若槻内閣 の片岡直温(なおはる)蔵相が質疑中に大蔵官僚から手渡された 「東京渡辺銀行が破綻状態」のメモ書を、うっかり銀行名を読み上げてしまい、バブル景気時に不動産融資にのめりこんだ「東京渡辺銀行」と兄弟銀行「あかぢ貯蓄銀行」には、翌日に預金者が押し掛け、銀行取り付けにあって休業した(金融恐慌の第一波)。3日後には東京の「中井銀行」も休業に追い込まれると、取り付け騒ぎは埼玉県、京都府、岐阜県などの地方金融界に波及してかねて噂のあった地方8銀行が休業に。さらに「台湾銀行」の救済問題が国会で審議され、同行の取引先の神戸の貿易商社「鈴木商店」(鈴木合名会社)が渦中の企業となり、台湾銀行の経営危機が表面化して、 金融恐慌の責任をとって若槻内閣が総辞職すると、田中義一の新内閣が成立した4月20日の翌日に「宮内省の本金庫」「華族の銀行」と呼ばれていた「十五銀行」が休業するに及んで、「万事休す」の状態となって、全国的な金融恐慌が発生し、銀行店頭に預金者が押しかける事態に発展した(金融恐慌の第二波)。新政府は大蔵大臣・高橋是清を中心に緊急対策に着手、5月に3週間の「支払猶予令」(モラトリアム)が銀行に出され、全 国の銀行がいっせいに休業にするに及んで恐慌状態は 一息ついたが、そんな金融パニックの最中の4月1日 には1873年(明治6)に発令された「徴兵令」が改正され、17 歳~ 40歳の男子に兵役義務が生じ、成人男子に陸軍 2年もしくは海軍3年の配属を明文化した「兵役法」が 制定されることとなった。この年の夏には作家の芥川龍之介が「ぼんやりとした不安」と遺書に書き残し、自宅で薬物自殺した。
年表
【1927年(昭和2)】
・2月 大正天皇の大葬
昭和冒頭の政争回避で3党首が会談
・3月 片岡蔵相の失言にて、金融恐慌が発生
・4月 若槻内閣が総辞職、田中義一内閣が組閣
モラトリアム(銀行の支払い猶予)発令
・5月 第一次山東出兵(9月撤退)
・6月 民政党(浜口雄幸・総裁)が結成
(憲政会と政友本党が解党の結果)
「東方会議」の開催
・11月 来日した蒋介石が田中義一首相と面会
・12月 日本最初の地下鉄(上野~浅草)が開業
《世界の動き》
・1927年、中国・南京に蒋介石の反共の国民政府樹立され、
国民政府(武漢)が中国共産党とたもとを分かつ
・1927年、中国共産党内で「南昌蜂起」(江西省南昌でクー
デター)、失敗した指導者が香港に拠点移す
・1927年、中国共産党内で毛沢東が長沙で「秋収蜂起」
に失敗、江西省と湖南省の省境の井こう山
(せいこうざん)に拠点移す
・1927年、スイスで補助艦の保有制限をめぐるジュネーブ
軍縮会議が開催される
・1927年、リンドバーグがニューヨークから大西洋横断し
パリに到着
日本と世界
時の政治
第25代首相・第1次若槻礼次郎内閣