
昭和(戦前)
初の国政の普通選挙と満洲某重大事件
1928年①(昭和3年)
内務省のポスター(1928)
政友会(立憲政友会)は、解散時の野党だったが、選挙で議席を28増やし、田中義一が内閣を組閣した
選挙権者は1240万人超
内務省のポスター(1928)
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1928年①(昭和3)初の国政の普通選挙
1928年(昭和3)2月20日に待ちに待った普通選挙法施行後の最初の国政選挙が実施された。選挙結果は、前年の6月に 「憲政会」(若槻礼次郎・総裁)と「政友本党」(田中義一・ 総裁)が解党して誕生した「立憲民政党(民政党)」が第 一党になり、再び田中義一首相が誕生したが、選挙に際して「日本労農党」「日本農民党」「社会民衆党」などの社会主義的な勢力、日本共産党の非合法組織の共産主義運動が活発化し、政府は選挙後の3月に全国の社会主義者、共産主義者を一斉に摘発検挙した(三・一五事件)。 中国大陸では、陸軍出身の田中義一首相は、4月に第二次山東出兵、5月にも第三次山東出兵を行い、6月には中国軍閥の張作霖が乗車する満鉄列車が爆殺される事件が発生、国内では共産主義を念頭に治安維持法が改正された。8月に政府がパリで不戦条約に調印、10月には青森県盛岡郊外の練兵場で行われた天皇臨席の陸軍特別大演習、11月には昭和天皇即位式の慶事が実施され、京都御所の紫宸殿における天皇の即位式が行われ、当日は全国が祝賀ムード一色となり、国民の中にナショナリズム(国家主義)が盛り上がることとなった。やがて、関東軍が「満洲某重大事件」と呼んだ張作霖爆殺事件が、実は陸軍大佐の河本大作(こうもと、後、満鉄理事)が首謀者だったことが判明、大佐は軍法会議にかけられることとなったが、軍法会議で日本の謀略の全貌を暴露するとすごんだことで軍法会議はとりやめとなり、当初は中国政府に正式に謝罪すると言っていた田中義一首相が閣議を開いたところ、閣僚の中から日本の立場上、河本大佐の処罰は得策ではないと、うやむやとなってしまった。閣議決定の上奏を受けた昭和天皇は、以前に聞いていた話とは違うと首相に辞表の提出を迫り、その結果、翌1929年(昭和4)7月に田中義一内閣は総辞職した。
年表
【1928年(昭和3)】
・1月 衆議院解散
・2月 普通選挙法施行後の最初の国政選挙(民政党が第一党に)
・3月 共産党弾圧(三・一五事件)
・4月 第二次山東出兵
・5月 第三次山東出兵
・6月 日本軍の張作霖爆殺事件
治安維持法の改正
・11月 昭和天皇即位式典(京都、御大典)
《世界の動き》
・1928年、パリで不戦条約が調印(8月)
・1928年、中国で北伐軍が北京に入城、北京は北平と改称
国民政府が首都を南京に移転
日本と世界
時の政治
第25代首相・第1次若槻礼次郎内閣