
昭和(戦前)
中国への軍事介入
1928年②(昭和3年)
(1928)
(1928)
3年遅れの即位式(大礼)
(1928)
テキスト本文
1928年②(昭和3)中国への軍事介入
金融恐慌の責任をとる形で辞任した若槻内閣の後継の首相に、陸軍軍人から政治家(貴族院議員)に転身した田中義一が外相を兼任する形で組閣した。田中内閣は、中国の革命が満洲に及ぶことに神経をとがらせ、中国問題に積極路線に転じ、1927年(昭和2)6月に閣僚・外務省の首脳陣・中国公使・軍部首脳陣を集め「東方会議」を開催した。その結果、内戦状態の中国大陸で日本の権益が侵される恐れが生じた時は、断固たる措置で臨み、満蒙(今の中国東北部と内モンゴル自治区)を日本の支配下に置く「対支政策綱領」など決定した。1928年(昭和3 )3月に蒋介石の北伐軍が広州から北上し、山東省に接近、4月末に山東省の省都の済南に10万の兵が迫ると、「居留民保護」を大義名分に、済南に出兵(第二次山東出兵)、 済南で起こったささいな事件を契機に軍事衝突(済南事件)が発生した。日本から派遣された第六師団と支那駐屯軍の攻撃で約3600人の戦死者を出すも5月に済南を占領したが、蒋介石の国民党軍(北伐軍)は済南を迂回して北上したため、「第三次山東出兵」は肩すかしとなり、日本の軍事干渉の試みは失敗に終わった。 関東軍は満洲を支配していた軍閥の張作霖に北平(北京)から奉天(今の瀋陽)に引き上げるよう勧告、6月4 日に奉天郊外で張作霖が乗車する列車を爆破して殺害 (張作霖爆殺事件)、事件の混乱に乗じて満洲(中国東北部)を中国から分離する工作を謀り、10月には満蒙領有論を構想する陸軍大学校教官だった石原莞爾(いしわらかんじ、1889 ~1949)が関東軍作戦主任参謀として満洲に赴任した。
年表
【1928年(昭和3)】
・1月 衆議院解散
・2月 普通選挙法施行後の最初の国政選挙(民政党が第一党に)
・3月 共産党弾圧(三・一五事件)
・4月 第二次山東出兵
・5月 第三次山東出兵
・6月 日本軍の張作霖爆殺事件
治安維持法の改正
・11月 昭和天皇即位式典(京都、御大典)
《世界の動き》
・1928年、パリで不戦条約が調印(8月)
・1928年、中国で北伐軍が北京に入城、北京は北平と改称
国民政府が首都を南京に移転
・1928年、中国共産党第6回大会がモスクワで開催
日本と世界
時の政治
第25代首相・第1次若槻礼次郎内閣
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/25.html
第26代首相・田中義一内閣
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/26.html
帝国議会解散(1/21)
第16回衆議院議員総選挙(2/20)