
昭和(戦前)
二・二六事件
1936年①(昭和11年)
反乱軍の永田町占拠(参謀本部前、左は建設中の議事堂)
ニ・二六事件
反乱兵の原隊への帰順(麻布歩兵第三聯隊)
反乱軍の永田町占拠(参謀本部前、左は建設中の議事堂)
テキスト本文
1936年①(昭和11) 二・二六事件
国際連盟から脱退して孤立する日本政府は、主力艦の軍縮を定めたワシントン軍縮条約の1934年(昭和9)の年末の期限満了を機に条約を廃棄、次いで補助艦等の軍縮を定めたロンドン海軍条約が1936年(昭和11)に満期となるため、その前年(1935)12月からロンドンにおいて改定・継続の軍縮会議が始まり、日本政府は対英米同等を強硬に主張して反対に会い、1月15日にロンドン軍縮会議からも脱退した。日本国内では衆議院の総選挙が実施され、立憲民政党が大勝利を収める中、2月26日の雪の日の早朝に「昭和維新」を唱える陸軍大将・真崎甚三郎を中心にした、天皇をあがめ、国体至上主義を唱える皇道派(荒木貞夫、香椎浩平、山下奉文など)に属する陸軍の青年将校に率いられた麻布第三連隊など1483人の兵士が首相官邸の岡田啓介首相を襲撃、齋藤実(前首相、内務大臣)、高橋是清(大蔵大臣)、真崎と対立した渡辺錠太郎(教育総監)、警備の警官4人、松尾伝蔵大佐の合計8人を殺害、永田町一帯を占拠する軍事クーデター(二・二六事件)が発生した。事件翌日には、「反乱部隊」と断じた昭和天皇自らが、麹町警察署に架電して、宮内大臣官邸と背中合わせにあった侍従長邸の安否などを確認され、竣工目前の新帝国議事堂(現・国会議事堂)などを含む首都一帯には午後3時半に戒厳令が出されたが、首相官邸・警視庁・陸軍省などが反乱軍に占拠され、政府は「軍人会館」(現・九段会館)に戒厳司令部を置き鎮圧に動いた。標的となった岡田首相は、風貌が酷似した松尾大佐が身代わりに殺害されたことで難を逃れたが、事情が分からず軍命令に従った大多数の兵士をラジオやビラ撒布で「原隊に帰れ」と呼びかけて帰順させて、事件は発生4日目の29日には事なきを得て終息した。難を逃れた岡田啓介首相の内閣は総辞職し、重大時局に際して元老の西園寺公望に御下問が下り、外務大臣・廣田弘毅に大命が下り、外務大臣官邸に組閣本部がおかれ、入閣者の選考が行われたが、陸軍大将(寺内寿一)が川崎卓吉・親英米派の外務省の吉田茂ら5名の入閣に反対した。「非公開、弁護人なし、一審制」の特設の軍法会議が3月4日から始まり、首謀者19人(うち民間人2人)に死刑判決があったが、かつて の桜会の十月事件以降、皇道派・統制派に分かれて主導権争いしていた陸軍内部で、天皇に近侍していた侍従武官長の本庄繁大将(女婿の山口一太郎大尉が事件に関与)は反乱将校らを当初は「義勇軍」と呼んで同情的な姿勢をとり、天皇の意思に沿わない奏上をしたことから叱責を受けて辞職、事件を主導した皇道派が追われ、新統制派と呼ばれる対中国強硬派のグループが主流派となった。軍部の強い発言権のもとで誕生した廣田内閣は、5月には1913年((大正2)に廃止されていた「軍部大臣武官制」を「軍部大臣現役武官制」として復活させ、対中関係を強硬に推進するため、支那駐屯軍の兵力を約5700名に増強した。
年表
【1936年(昭和11)】
・1月 議会解散・衆議院総選挙(民政党の勝利)
ロンドン軍縮会議からの脱退通告
・2月 二・二六事件発生 岡田内閣総辞職
・3月 廣田内閣成立
・5月 軍部大臣現役武官制が復活
・7月 二・二六事件で死刑判決
・8月 五省会議で南方進出
・11月 国会議事堂が竣工
日独防共協定が締結
《世界の動き》
・1936年、ドイツで第11回オリンピックベルリン大会
・1936年、ドイツがロカルノ条約(領土不可侵)を破棄宣告
・1936年、イタリア、ムッソリーニ首相が伊・独の枢軸声明
・1936年、フランスで反帝国主義・反ファシズム・反戦を
掲げ、複数の政党の連合政権(フランス人民戦線)
が成立(翌年に終結)
・1936年、スペインに人民戦線が成立、フランコ将軍が反乱
を起こし、スペイン内戦(1936〜1939)が始まる
・1936年、中国で「西案事件」発生(第二次国共合作へ)