昭和(戦後)

東京裁判(極東国際軍事裁判)

 

1948年①(昭和23年)

巣鴨拘置所
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1945

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戦犯容疑者の逮捕・起訴
戦犯容疑者の逮捕・起訴

1946

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東京裁判の法廷
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巣鴨拘置所
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1945

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1948年①(昭和23) 東京裁判(極東国際軍事裁判)


ポツダム宣言を受諾して無条件降伏した日本国に同宣言(第10項)の「一切の戦争犯罪人に対して厳重なる処罰を加えられるべし」を根拠に、GHQは公開裁判を開廷することとなった。ナチスドイツの残虐非道 の罪を裁くべく、「通例の戦争犯罪」(捕虜虐待などの B級戦犯)に加え、新たに「平和に対する罪」(共同謀議の罪、A級犯罪)「人道に対する罪、A級犯罪」が加えられ、アジアにおける軍事的・政治的・経済的支配を共 同謀議があったとされる田中義一内閣の1928年(昭和 3)から日本敗戦(1945)に到るまでの政治指導者・軍事指導者の戦争責任の追及が始まった。まず100人を超すA級戦犯候補者に出頭命令が出され、1945年(昭 和20)9月11日に容疑者の筆頭として東條英機ら39人に出頭命令を出され、かつて大本営が置かれた市ヶ谷の元陸軍士官学校の講堂を法廷に公開裁判が開廷することとなった。裁判を前に、自ら「戦陣訓」(1941年発遣)で「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」とした東條英機は、自宅でMP(憲兵隊)に身柄を拘束される直前にピストルで自殺未遂を図って失敗、国民の不興を買うこととなった。その翌日には参謀総長・陸軍大臣を歴任した杉山元が出頭を拒否して旧陸軍司令部でピストル自殺、9月13日には元厚生大臣の小泉親彦が割腹自殺、15日には元首相 の近衛文麿が荻窪の自宅で服毒自殺した。開廷された裁判では最初に各国ごとにB級(捕虜虐待、住民虐待などの罪で裁かれる将校)・C級(同じく下士官、兵卒)の戦犯の合計5416人が訴追された。虐殺事件のあったフィリピンのマニラ軍事法廷では、「マレーの虎」と恐れられた第十四方面軍司令官だった陸軍大将の山下奉文(ともゆき)が123の罪状で訴追され、翌1946年(昭和21)の2月にはやばやと死刑となった。続いて5月3日に東京で 開廷したA級戦犯の軍事裁判では、11か国(アメリカ・イギリス・ソビエト・中華民国・フランス・オランダ・オーストラリア・ニュージーランド・カナダ・インド・フィリピン)から成る判事団のうち、ソビエト・オーストラリア は天皇責任に固執したが、占領政策の全責任を負っていたマッカーサーにより天皇の戦争責任は不問とされた。唯一の民間人で桜会と連携した国家主義者の大川周明は、水色のパジャマで素足に下駄ばきで出廷し、休廷中には前に座っていた東條の頭を背後からピシャリとたたくなどの奇行の多さから4月9日に精神障害との診断で審理から除外された。4月29日には28名が起訴され、5月 3日からは東條英機・松岡洋右らの起訴状の朗読がなされた。5月18日にはかつて軍人と対立、南京大虐殺当時の外相で事件の防止義務違反の罪に問われていた廣田弘毅の妻が子供6人を残して自殺した。6月には 松岡洋右が病死、翌年の法廷では検察側の立証が済み、向こう1年余りの反証・反対尋問が始まった。そして 1948年(昭和23)4月16日に東京裁判は結審して10月には岸信介・笹川良一・児玉誉士夫らが不起訴/司法取引で釈放される中、11月12日に東條英機ら25名がA級戦犯として有罪判決を受け、1ヵ月半後のクリスマスイブの前日深夜に巣鴨プリズン(巣鴨拘置所)に合計7人の土肥原賢二・松井石根・東條英機・武藤章の第一グループ、板垣征四郎・廣田弘毅・木村兵太郎の第二グループに分けられ、文官だった廣田を除く軍人6人は処刑場に向かう際に、万歳を三唱して行進、23日午前0時1分に第一グループ、0時20分には第二グループに絞首刑が執行された。遺体は深夜2時すぎに巣鴨から横浜の米軍基地に向けて軍用トラックで運ばれ、早朝に市内の久保山火葬場で焼かれ、遺骨の一部は7つの骨壺にいれられ、処刑に立ち会った米軍少佐により、伊勢佐木町に開設された滑走路から飛び立った軍用機が東48キロに飛んだ海上から広範に散骨されたが、火葬場に残された遺骨の一部は、小磯元首相(終身禁固刑)の弁護士が25日夜に密かに回収し、遺族に引き渡された(その一部は愛知県の殉国七士廟に後に埋葬)。479人の証人、779冊の供述書が提出された東京裁判は、49 ヵ所の法廷で裁かれたBC級戦犯で984人にも判決が下り、うち最終的に920人に死刑執行がなされ、マニラ軍事裁判に続いて開廷した東京裁判は閉廷し、裁判権のある中華民国による南京軍事法廷では、犠牲者数が30万人以上と認定され、残虐行為があった旧日本軍人に1948年(昭和23)1月に死刑執行されたが、ソビエトの捕虜としてシベリア送りとなり、1949年(昭和 24)建国の中華人民共和国に引き渡された裁判待ちの日本人が相当数いて、すべてが帰国するまでには終戦から10年近くの年月を必要とした。

年表

【戦争裁判年表1945~1948年】


1945年(昭和20)

・9月 東條ら戦犯39人に逮捕命令

・10月 マニラ軍事裁判(BC級戦犯対象)が開廷

・11月 ニュルンベルグ裁判が開廷


1946年(昭和21)

・5月 東條ら戦犯28人が起訴

・6月 キーナン主席検事が天皇を起訴しない旨発言

・10月 ニュールンベルグ裁判が終結(12人に絞首刑)

1947年(昭和22)

・4月 マニラ軍事裁判が閉廷

・11月 東京裁判、25被告に有罪判決

・12月 7人のA級戦犯に絞首刑執行    

 
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​第47代首相・第2次吉田茂内閣

http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/47.html

昭和23年3月15日 民主自由党(総裁・吉田茂)が結成

昭和23年5月1日 海上保安庁が設

昭和23年7月   建設省(現・国土交通省)が発足

昭和23年10月日 第2次吉田茂内閣

​第48代首相・第2次吉田茂内閣

http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/48.html

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