
昭和(戦後)
朝鮮戦争~国連軍と警察予備隊
1950年①(昭和25年)
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1950年①(昭和25) 朝鮮戦争〜国連軍と警察予備隊〜
第二次世界大戦後、朝鮮半島は最長5年間のアメリカとソビエトの信託統治するところとなり、終戦直後に北緯38度を境に南にいる残留日本兵はアメリカ軍へ、北にいる残留日本兵はソビエト軍へ投降せよとされたことで「北緯38度線」が強く意識されるところとなった。日独伊の枢軸国の共通の敵が消滅したことで米ソの蜜月時代は過去のものとなり、アメリカを中心する資本主義諸国とソビエトを中心とする社会主義諸国との両陣営が対立する「冷戦時代」となり、1948年(昭和23)8月に大韓民国(南朝鮮)、9月に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立し、翌1949年(昭和24)4 月に西側諸国12か国が集団防衛条約のNATO(北大西洋条約機構)を成立させて、6月に朝鮮半島に展開していたアメリカ軍が撤収し、ソビエト軍も撤収したが、 10月に中華人民共和国が建国するに及んで朝鮮半島の南北分断が決定的となり、「北緯38度線」を挟んでいずれの国が朝鮮半島の統一を果たすのかの主導権争いが激化した。そして1950年(昭和25)6月25日の午前4時に38度線にて戦車・戦闘機を動員した北朝鮮軍の砲撃が開始、30分後には約10万の兵力が38度線を突破し、首都ソウルは3日後の6月28日に陥落、韓国政府はソウルを放棄し、新たに京畿道の水原(スウォン)に首都を移転しなくてはならなくなった。7月23日には半島南西部の全羅南道の光州(クァンジュ)が北朝鮮に占領され、半島全てが北朝鮮に占領される寸前となった。北朝鮮が南進侵攻した翌日の6月26日夜には、朝鮮半島に不介入姿勢だったアメリカ政府が一転して介入方針を決定、翌日に急遽開催された国連の安全保障理事会で「武力攻撃の撃退並びに朝鮮半島の国際平和と安全の回復」の国連決議がなされた。中華民国が加盟し、中華人民共和国(中国)が国連に招致されない国連決議にソビエトが抗議して国連決議に加わらない不規則決議の中、国連軍の朝鮮戦争への軍事介入が決定した。最終的には死者不明者200 万人超・1000万人以上の負傷者を出す朝鮮戦争の勃発で、韓国政府は「戦時作戦統制権」を国連軍の司令官に委譲し、光州占領のその3日後に16か国からなる国連軍の編成が完了した。日本駐屯の連合国軍が国連軍を支援するため出動となり、朝鮮戦争の勃発で日本の地政学上の意味は大激変を余儀なくされ、「東アジアの要(かなめ) 」「米軍・国連軍の前哨基地」となった。吉田改造内閣が誕生した6月28日の翌日には九州の小倉・八幡・門司(共に今の北九州市)で警戒警報が発令されて、灯火管制が敷かれ、さらに7月4日に政府は朝鮮戦争での米軍への協力方針を了承した。国連軍の総司令官でもあるマッカーサー元帥はアメリカ軍が朝鮮半島に部隊を展開することで、手薄になった日本に朝鮮戦争の背後に見え隠れするソ連軍が侵攻してくるのを憂慮して7月8日に吉田茂首相に新たに警察予備隊の設置と海上保安庁(1948年創設)の増強を指令する書簡 (マッカーサー書簡)を送り、その結果、「国内の治安維持」の名目で7万5千人の警察予備隊の創設と海上保安庁の定員8千人増を決定した。GHQの指令受けた政府は、8月10日に警察予備隊令(政令第260号)を公布施行し、自衛隊の源流となる「警察予備隊」が創設されることとなった。
年表
《朝鮮半島の年表 1948~1950》
1948年(昭和23)
・8月 大韓民国(韓国,初代大統領は李承晩)が成立
・9月 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮,初代首相は金日成)
・12月 国連が韓国政府を朝鮮の唯一の合法政府と承認
1949年(昭和24)
・10月 中華人民共和国が成立(主席・毛沢東)
・この年の後半 米ソが朝鮮半島から軍隊を撤収
1950年(昭和25)
・6月25日に朝鮮戦争が勃発
・6月27日、米が台湾海峡に第7艦隊の派遣発表
・7月 政府が朝鮮戦争で米軍に協力方針を了承
レッドパージはじまる
・8月 警察予備隊令が公布
・9月 トルーマン米大統領が対日講和案を了承
国連軍が仁川に上陸
・10月 朝鮮戦争に中国が参戦
・12月 「中国人民派遣軍」が朝鮮半島に出兵
日本と世界
時の政治
第48代首相・第3次吉田茂内閣(s24/2~s27/10)
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/49.html
昭和25年3月1日 自由党が発足(吉田茂・総裁)
昭和25年6月4日 第2回参議院選挙
昭和25年6月28日 吉田茂改造内閣
昭和25年12月7日 「貧乏人は麦を食え」と首相が失言