
昭和(戦後)
朝鮮戦争~朝鮮特需~
1950年②(昭和25年)
板付飛行場のジエット戦闘機
兵器の修理・弾薬製造のPD工場と呼ばれる日本国内工場は多忙となった
東京・有楽町
板付飛行場のジエット戦闘機
テキスト本文
1950年②(昭和25) 戦後復興〜朝鮮特需〜
朝鮮戦争(1950~1953)の勃発の直後に参戦した国連軍は、当初は劣勢であったが、朝鮮半島の東側から上陸するとみせかけ、反対の西側の仁川(インチョン)から上陸する陽動作戦に成功、北朝鮮軍を背後から攻撃して部隊の分断に成功した。戦況の逆転に成功した国連軍は、9月26日にソウルを奪還、さらに今度は北朝鮮の首都・平壌(ピョンヤン)を10月19日に攻略、当初の国連決議の範囲を超えて国連軍の全半島の統一を目指すものとなると、同じ共産主義陣営の中国が、10月末に「義勇兵」名目で突如として介入、11月末に中国の正規軍が本格参戦されるに及んで、朝鮮戦争は長期化の様相を帯びることになった。16か国から成る国連軍の参戦は、戦後の復興途上にあってドッジ・デフレの中にあった日本経済に想定外の経済特需となり、当時の貿易赤字全てを超す20億ドル以上の「朝鮮特需」は戦後の日本経済が息を吹き返す端緒となった。国連軍の前哨基地となった日本には、国連軍の部隊編成に伴う軍服調達の注文が殺到、繊維業界が活況となり、戦勝国との申し合わせで封印されていた織機は罰金(1000円)を支払っても10倍の収入があったことで「ガチャ万コラ千」との言葉が生まれた。戦地に近い福岡は、国連軍の食糧供給地となり、また、日本が戦車・トラックなどの兵器修理の後背基地となったことで、鉄鋼生産の活況から電炉溶解されるくず鉄も高価になり「くず鉄拾い」で生計を立てる者も現れた。朝鮮特需は日本経済復興の原動力となり、商工省は通商産業省(現・経済産業省)と改称され、翌年の1951年(昭和26)には経済安定本部が旧の中央経済庁・物価庁を統合して経済審議庁(後の経済企画庁)となるとともに、以前に過度経済集中排除法での指定対象だった国策電力会社の日本発送電力株式会社が分割され、5月に北海道電力・東北電力・東京電力・北陸電力・中部電力・関西電力・中国電力・四国電力・九州電力の9つの地域電力会社が誕生した。翌1952年(昭和27)に「電源開発促進法」が公布され、国策電力会社の電源開発が設立されるなど、戦後復興の中、日本全国で電力不足の克服が合言葉となった。
年表
《復興期年表-1950年~1951年》
1950(昭和25)
・6月 朝鮮戦争が勃発
・この年,物資の配給や価格制度が撤廃される
1951年(昭和26)
・3月 国連軍がソウルを奪還
・5月 9つの地域電力会社が誕生
・6月 NHKがテレビの実験放送を開始
・9月 対日講和条約調印
日米安全保障条約調印
民間ラジオ放送が開始
《世界の動き》
・1950年、英が中華人民共和国を承認(1月)
・1950年、米で反共の「マッカーシー旋風」(2月)
・1950年、中ソ友好同盟相互援助条約に調印(2月)
・1950年、仏がインドシナ休戦に米の援助要請(2月)
・1950年、原爆禁止の「ストックホルムアピール」(3月)
・1950年、朝鮮戦争勃発(6月)
・1950年、朝鮮戦争、国連軍が仁川に上陸(9月)
・1950年、人民解放軍がチベットに進駐(10月)
日本と世界
時の政治
第48代首相・第3次吉田茂内閣(s24/2~s27/10)
http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/49.html
昭和25年3月1日 自由党が発足(吉田茂・総裁)
昭和25年6月4日 第2回参議院選挙
昭和25年6月28日 吉田茂改造内閣
昭和25年12月7日 「貧乏人は麦を食え」と首相が失言