
平成
バブルの崩壊
1990年(平成2年)
1992年元旦の新聞
高知県中土佐町、1990
オーバーキルとなり、バブル崩壊へ
テキスト本文
1990年(平成2) バブルの崩壊
1989年(平成元)6月に、5回にわたる日米構造協議が一応の結論を得て、最終報告書が翌1990年(平成2)に提出されることとなった。2月には第39回衆議院議員総選挙が実施され、絶好調の経済の後押しで自民党が286議席と安定多数の議席を確保し、第二次海部内閣が成立した。3月23日に、国土庁は恒例の1月1 日の公示地価を発表、全国で地価の暴騰はおさまらず、大阪圏の住宅地は前年比56.1%となり、新快速の登場で神戸の通勤圏となり、駅前にデパートが開店した兵庫県加古川市の値上がりが際立った。この3月に日本銀行は、地下高騰の資産インフレを鎮静化すべく、公定歩合を1%引き上げ、5.25%とした。その3月末には大蔵省銀行局が銀行に対して不動産融資を、融資総額の3%にするよう「融資の総量規制」を行政指導、各銀行は、抜け穴さがしを行い、融資銀行の関連ノンバンクに融資を迂回させ、実効性ない状態で、バブル景気は継続した。6月にイギリスの金融専門誌が世界の銀行番付を発表したが、上位1位から3位までを日本の都市銀行が独占し、7月にアメリカの経済誌も恒例の世界企業ランキングを発表、6位にトヨタ自動車、9 位に日立製作所がランクインした。転機が訪れたのは夏の8月初旬、中東のイラクで独裁者だったサダム・ フセインが、隣国の産油国のクウェートに突然に軍事進攻した。中東地域の混乱は石油価格を急騰させ、株式市場は急落し、すでに年初から株価が沈滞していた中、イラク軍が国連の介入にもかかわらず兵を引かな いことで、さらに下げ足を速めることとなった。一方、 地価の急騰につぐ急騰の不動産バブルの背後でうごめく存在に脅威を感じていた日本銀行は、地価を15%低下させるため、8月末日に引き下げるべきだった公定歩合を逆に0.75%引き上げた。その結果、株安・原油高・金利高のトリプルパンチとなり、当時の日銀総裁の三重野康 (みえのやすし )の名から「三重苦」と呼ばれ、1986年(平成61)12月以来の51か月にわたる好景気のバブル期は終焉を迎え、10月1日の東証株価は、2万円を割り込み、翌1991年(平成3)の経済指標は従前からの好調な数字にひきずられて、表面上の数字は良好だったが、1991年(平成3)12月に発表の11月の卸売物価指数はマイナスに転じ、日本経済は、大幅な株価下落と大幅な地価下落の本格的な「資産デフレ」に直面することとなり、始まったばかりの「バブル崩壊」によるデフレの海に沈むこととなった。
年表
【1990年(平成2)年表】
・1月 大学入試第1回センター試験が実施
・2月 衆議院議員総選挙
第2次海部内閣が組閣
・3月 国土庁の公示地価の発表・高騰
日銀が公定歩合1%引き上げ(5.25%に)
・6月 新安保条約につき日米首脳が継続確認声明
礼宮と川嶋紀子の結婚、秋篠宮創設
前年1989年の出生率が史上最低(1.57ショック)
・8月 イラク軍がクウェート侵攻 (株価の急落)
日銀が公定歩合を0.5%引き上げ(バブルの崩壊)
・9月 防衛白書で「ソ連の脅威」削除
・10月 東証株価2万円を下回る
・11月 雲仙普賢岳が大噴火(200年ぶり)
「1990年民間女性会議」が開催
「女性学研究」(女性学研究会)が創刊
《世界の動き》
・1990年、モスクワにマグドナルド1号店開店(1月)
・1990年、南アが終身刑のネルソン・マンデラを釈放(2月)
・1990年、旧ソ連邦国のラトビアが独立(2月)
・1990年、旧ソ連邦国のリトアニア、エストニアが独立(3月)
・1990年、ソ連、憲法改正により大統領制に、初代大統領に
ゴルバチョフ大統領が就任(3月)
・1990年、台湾の李登輝総統が中国と敵対終息を表明(5月)
・1990年、ヒューストンサミット(7月)
・1990年、イラク(フセイン)がクウェート侵攻(8月)
・1990年、中国・インドネシアが国交回復(8月)
・1990年、韓国・ソ連が国交樹立(9月)
・1990年、東西ドイツが統一(10月)
・1990年、ポーランド大統領選挙でワレサ議長当選(12月)
・1990年、上海に証券取引所が開所(12月)