
平成
イラクの侵攻・PKO法案の廃案
1991年(平成3年)
テキスト本文
1991年(平成3) イラクの侵攻・PKO法案の廃案
1990年(平成2)8月2日に、中東のサダム・フセインの独裁国イラクが隣国の豊かな産油国のクウェート に侵攻し、武力で同国の併合を試みた。8月6日には、国際連合がイラクへの経済制裁を決議し、その翌7日 には、クウェートと密接な関係国であるイギリスと同 盟関係にあるアメリカは、親密国のサウジアラビアからの軍事介入を目的に、クウェート派兵を決定した。イラクの侵攻直後にブッシュ大統領は、日本の海部首相に掃海艇や輸送艦の派遣を求め、月末には、日本は、今後に組成される国連の多国籍軍への輸送・物資 協力・医療協力・資金協力などを発表した。国連の安保理事会は、イラクが撤退しないとみると、11月には 国連軍の武力行使を容認する決議を採択、中東における戦争はもはや避けられない問題となり、年が明けた1991年(平成3)1月17日に、アメリカ軍を中心にした多国籍軍がイラクに侵攻し、湾岸戦争が勃発した。日本には、湾岸戦争への多国籍軍への参加という憲法上の難題が海部内閣に持ち込まれることとなった。国連維持活動法(PKO法案)は発議から国会の3会期をかけて慎重に国会審議され、国民からは圧倒的な反対の声があがり、憲法学者からは「自衛隊の海外派遣は集団的自衛権の行使に該当し、違憲(当時)の恐れありとの多数の意見が続出、また、憲法9条の法文解釈上から難しいとの内閣法制局からの回答を受け、紛糾した法案は廃案となった。そこで「集団的自衛権でない形の協力」として、避難民の自衛隊機輸送・物資輸送・医療活動などの後方支援を行うこととなり、その第一弾として10億ドルの拠出を日本政府は決定した。4月 に臨時閣議を開催してペルシャ湾への掃海艇の派遣を決定、湾岸戦争は米軍の「砂漠の嵐作戦」が成功して、またたく間にイラクの敗戦で決着し、1月24日、日本 の年間の防衛予算の3分の1に相当する90億ドル(約 1兆2000億円)の拠出を決定、その後の追加拠出を含めると、拠出総額は130億ドル超と最大の拠出国となった。国内では2.5%の臨時法人特別税を創設、石油税も増税して財源を確保することとしたが、バブル崩壊後の増税政策は日本経済の傷口を広め、11月5日に後継内閣の宮澤喜一内閣が誕生したが、大蔵省(今の財務省)は直後の20日に1991年度(平成3)の税収不足は 2兆7000億円との見通しを発表、イラクの独裁者サ ダム・フセインの暴挙は、日本のバブルを崩壊させたのみならず、日本における憲法改正論議の出発点ともなり、また、4月に自衛隊が初めて後方支援で海外派遣されたことで、自衛隊の海外派兵に道を開くこととなった。
年表
【1991年(平成3)年表】
・1月 湾岸戦争始まる
日本人初の国連難民高等弁務官に緒方貞子が就任
・2月 湾岸戦争が終わる
・3月 ペルシャ湾に自衛隊の掃海艇派遣
・5月「育児休業法」公布(1992.4.1・施行、男女とも休業取得可能に)
・6月 社会科教科書に「日の丸が国旗」「君が代が国歌」明記 ・11月 宮澤喜一内閣が組閣
《世界の動き》
・1991年、米軍中心の多国籍軍が対イラクの湾岸戦争開始
(1月開戦〜4月、イラク敗北)
・1991年、ロシア共和国の初代大統領にエリツィン(6月)
・1991年、ワルシャワ条約機構が解体(7月)
・1991年、アメリカ、ソ連が戦略兵器削減条約(START1)
調印(7月)
・1991年、ソ連保守派がクーデター、ソビエト共産党が
解体、ゴルバチョフ書記長辞任(8月)
・1991年、韓国・北朝鮮が国連に同時加盟、エストニア
・ラトビア・リトアニアも加盟(9月)
・1991年、ノーベル平和賞(アウンサンスーチー)(10月)
・1991年、 ゴルバチョフ大統領辞任、ソ連消滅(12月)
・1991年、中国が核拡散防止条約加入を批准(12月)