平成

天安門事件と天皇訪中

 
目次

1992年②(平成4年)

天安門事件の導火線(民主化運動)
天安門事件の導火線(民主化運動)

1989年5月4日

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万里の長城の天皇・皇后(当時)
万里の長城の天皇・皇后(当時)

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天安門事件の導火線(民主化運動)
天安門事件の導火線(民主化運動)

1989年5月4日

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1992年②(平成4) 天安門事件(1989)と天皇訪中


「昭和」から「平成」へと改元され、明仁天皇(後の上皇)が1月に即位された1989年(平成元)に、中国では 5月に民主化を求める学生ら民衆を軍隊が武力で鎮圧し、多数が死亡した「天安門事件」があり、事件後は不安定な国内情勢から、日本をはじめ西側の外国企業が一時的に中国から社員を引き上げる事態となった。事件直後6月に日本政府はODA(政府開発援助)の凍結に言及、翌年(平成2)実施予定の第3次円借款並びに中日友好環境保全センターの建設など一部のODAを保留した。同年7月のフランスでのアルシュ・サミッ ト(第15回先進国首脳会議)では、議長国フランスをはじめ欧州諸国が中国政府を厳しく非難したが、西側諸国の中で日本とアメリカは中国の孤立を危惧、また、中国を国際社会から排除せず、日本は中国の改革路線を支えることを対中政策の基本路線とした。翌年の1990年(平成2)7月のヒューストン・サミット(第16 回先進国首脳会議)では、日本の海部首相が対中円借款の再開に言及し、国際世界における孤立の状態を打破したい中国政府も、日本国との関係改善を望み、その翌8月には、天安門事件後、西側先進国で最初の首脳訪問として海部首相が訪中し、改めて改革開放路線への期待を語り、11月に凍結していた円借款を再開した。1991年(平成3)2月にソビエト連邦からバルト 三国(ラトビア・リトアニア・エストニア)が相次いで独立を決議し、ソ連崩壊を目の当たりにすると、体制維持のためにも、中国の国際社会への復帰への焦燥感が 後押しする形となり、西側諸国の民主化圧力の中、鄧小平は改革開放路線を続けて国際社会に復帰することを決断し、日本から招請を受けた1992年(平成4)1月、 「日中外相会談」が北京で持たれ、中国外相から宮澤内閣の外務大臣(渡辺美智雄)から懸案事項となっていた 日中国交正常化20周年を記念しての「天皇訪中」が検討されることとなった。その後、天皇訪中に関し、謝罪外交を危惧して反対する党内の保守派を説得するのに半年を要し、8月25日にようやく天皇訪中が宮澤内閣で閣議決定され、10月に天皇・皇后の初めての中国歴訪が実現した。6日間の日程に北京・西安・上海の3 都市を訪問され、訪問初日の夜に北京・人民大会堂で国家主席(楊尚昆)主催の晩さん会で、天皇が「我が国が中国国民に多大な苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります」と挨拶されると、会場からは万雷の拍手が湧き、 その報道映像は中国全土に好意的に報じられることとなった。この年の中国共産党大会で「社会主義市場経済」を公式に表明し、市場経済に軸足を大きく踏み出し、社会主義体制の基盤強化する道を選択した。この鄧小平のさらなる決断は、世界から投資を呼び込むこととなり、中国は年率で10%を超す高度経済成長の時代を迎えることとなった。

年表
 
日本と世界
《中国・台湾・日本》領海法の制定
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《日本・中国》宮沢首相の訪中
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《日本・中国》日中国交正常化20周年
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時の政治
 
宮沢喜一首相
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女性史
 
社会問題のエイズ
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TOPICS
中国の「領海法」(国内法)の制定
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