平成

ボスニア紛争~旧ユーゴの崩壊~

 
目次

1992年③(平成4年)

混乱の始まり
混乱の始まり

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空爆を受けたボスニアのビル
空爆を受けたボスニアのビル

1992・サラエボ市街

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戦死者の墓地
戦死者の墓地

元オリンピック会場跡

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混乱の始まり
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1992年③(平成4) ボスニア紛争〜旧ユーゴの崩壊〜


1984年(昭和59)に欧州東南部の社会主義国の旧ユーゴスロバキア連邦(今のボスニア・ヘルツェゴビナ共和国)の首都サラエボで、モスクワ五輪(1980)に次いで東側諸国で2回目のオリンピック、冬季オリンピックとしては初めてのサラエボオリンピックが開催され た。旧ユーゴは「7つの国境・6つの共和国・5つの民 族・4つの言語・3つの宗教・2つの文字・1つの国家」 というモザイク国家で、第二次大戦中にナチスドイ ツに対するパルチザン(抵抗活動家)として名をはせ、 ユーゴを解放したクロアチア生まれの英雄チトーが君臨し、長らく平和が保たれていた。ところが、1980 年(昭和55)にチトー大統領が87才で死去すると、集団指導体制に移行する頃から、民族対立が激化し、ベルリンの壁の崩壊後、サラエボオリンピックの6年後 (1990年)にユーゴスロバキア連邦の崩壊が始まり、セルビア人、イスラム教徒、クロアチア人の間で民族独立の要求の高まりに経済的な背景も加わって、クロアチアとスロベニアが独立宣言を行い、スロベニアに連邦軍が侵攻し、1992年(平成4)1月に内戦(ユーゴ内戦) に突入した。4月にセルビアとモンテネグロ共和国が新たにユーゴスラビア連邦共和国を宣言したが、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国(首都・サラエボ)への武力介入に国連が厳しい経済制裁を課して認めず、国連保護軍が介入したが停戦はなされず、「バルカン半島の火薬庫」はやがて欧州最大の紛争地となった。1994年 (平成6)には、西側のNATO軍が介入してセルビア人勢力を空爆、米・英・仏・独と東側国のロシアの5つの国がボスニアの地を分割するボスニア紛争は、8月にセルビアで住民投票が行われたが協議はまとまらず、 国連安保理がセルビアの経済制裁を強化する中、1995年(平成7)7月には ボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァで、スルプスカ共和国軍がイスラム教徒のボシュニャク人8千人を殺害する事件(第二次世界大戦以降での欧州最悪の虐殺事件、スレブレニツァの虐殺) があり、ボスニア紛争でのおびただしい戦死者・難民は200万人ともいわれ、1999年(平成11)にセルビアは空爆されるとともに、6つの共和国がすべて独立してユーゴスラビア連邦は消滅、かつてサラエボオリンピックが開催されたオリンピックのメイン会場は戦争犠牲者の墓地となっていた。

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