平成

小選挙区制の採用

 
目次

1994年①(平成6年)

1956(昭和31年)の小選挙区反対
1956(昭和31年)の小選挙区反対

日本社会党(当時の最大野党)

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1956(昭和31年)の小選挙区反対
1956(昭和31年)の小選挙区反対

日本社会党(当時の最大野党)

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1994年①(平成6)  小選挙区制の採用


日本の選挙制度の歴史は、1889年(明治22)の大日本帝国憲法にしたがい、1890年(明治23)6月に貴族院の皇族議員・華族議員・勅任議員(多額納税者議員等)を選出する貴族院の議員選挙に続いて、7月1日、第1 回衆議院議員選挙(日本最初の国政選挙)が実施された時は「小選挙区制」だった。人口13万人前後を目安に1区とし、どうしても13万人程度の1人区の選挙区ができない場合は、26万人程度での2人区として、全国で300の選挙区の定員1(もしくは2)の議席をめぐり、 1243人が立候補し、直接国税15円以上納税者で満25歳以上の男性45万人が投票するという「制限選挙」で選挙権のある人の人数は日本国民1%未満だった。 1902年(明治35)の山縣有朋内閣の時に、与党に有利なように大選挙区制に改め、全国の各府県を1つの選挙区とし、人口12万人あたり1人の議員を選出することにして、369の議席をめぐり「制限選挙」が実施されたが、その結果、選挙の票を金で買う「買収選挙」が常態化した。大正デモクラシーの盛り上がりの原敬内閣の1918年(大正7)に元の「小選挙区制」に戻し、1人区で295議席、2人区で68議席、3人区で11議席の合計374議席の衆議院議員を「制限選挙」で選出した。第2次の大正デモクラシーで普通選挙(満20歳以上の男子に選挙権)が認められた1924年(大正13)の選挙時の加藤高明内閣の時には、有権者の数が300万人から1200 万人に急増して、この時には、「中選挙区制」に改められ、466の議員定数をめぐり選挙が実施された。戦時の「翼賛選挙」の時期を経て、戦後にGHQは、明治憲法の改正により民主的な新憲法の制定をすることと し、その前提として、1945年(昭和20)12月17日に衆議院議員選挙法が改正され、婦人参政権が与えられ、 同時に「大選挙区制」に改められて、1946年(昭和21) 4月10日に大選挙区制(制限連記制)で第22回衆議院議員総選挙が実施された。1947年(昭和22)3月に衆議院議員選挙法が改正され、今度は「中選挙区制」(単記制)となり、第23回衆議院議員総選挙が実施されて、 社会党が143議席で自由党131議席を上回った。以降 は「中選挙区制」で選挙が実施されたが、1955年(昭和30)に自由党・民主党が保守合同で「自由民主党」が誕生したが、自由民主党の初代総裁に憲法改正論者の旧自由党の党首・鳩山一郎が選ばれて、鳩山内閣が誕生すると、翌1956年(昭和31)4月に、憲法を改正したい鳩山首相は、保守政党に有利な「小選挙区制」、革新政党に前回選挙で有利だった現行の「中選挙区制」を自民党に有利な恣意的な選挙区割りを行い「小選挙区制」への改正法案を提出し、恣意的な選挙区割りが「ゲリマンダー」と呼ばれることから、「ハトマンダー」と 呼ばれ、法案審議は紛糾し、小選挙区制になれば、社会党の現有議席が半減するだろうとの憶測も流れ、審議未了で法案は廃案となった。その後は「中選挙区制」のもとで、衆議院議員選挙がおこなわれた。その後、 1973年(昭和48)に田中角栄首相が、4月に「小選挙区制採用」を表明したが、全野党が反対で共闘し、翌5月 に国会審議を全面拒否されたことで政府は国会に議案提出を断念した。その後にロッキード事件(1976)・ リクルート事件(1988)などの保守系政治家絡みの贈収賄事件が起こるたびに「選挙にカネがかかる中選挙区制が悪い」という論調が現れ、しばらくの時が流れ、 1992(平成4年)5月に元熊本県知事の細川護熙が新政党「日本新党」を結成し、翌1993年(平成5)に宮澤喜 一内閣の不信任案が可決により解散した7月実施の衆議院総選挙で、与党・自民党が過半数割れ、野党第 一党の社会党の票もブームの新党の票に流れ、選挙後に「日本新党」「新党さきがけ」が統一会派を組み、そこに「新生党」(党首・小沢一郎)が非自民勢力を結集しての連立政権プランを持ち掛けて結実し、自民党の長期政権(55年体制)に終止符が打たれることとなった。 先の3党に社会党・公明党・民社党・さらに社民連・民改連の2会派も加わり細川連立内閣が誕生した。最重要課題に掲げる「政治改革」で、従来の「中選挙区制」 にかえ、共に定数を250議席とする「小選挙区制」(比例代表並立)を採用する案が閣議決定され、比例代表の議席を多くしたが、議論は紛糾した。野党・自民党の対案は、逆に「小選挙区」を300議席に増やし、比例代表171議席と少な目にして二大政党制を志向するものとした。与野党協議はそこでも紛糾し、そこで政府案の小選挙区の250議席を24議席増やし、比例代表議席をその分減らしてようやく11月に衆議院を通過した。 参議院でも審議は難航して越年、翌1994年(平成6)1 月に衆議院を通過した案が否決されてしまった。そこで細川首相と野党・自民党の河野洋平総裁のトップ会談が行われ、自民党の当初案の300議席を丸のみ、比例代表の171議席にプラス29増やして200議席で折り合い、3月4日に参議院本会議で保守系政党の宿願だった「小選挙区制」(比例代表並立)の導入を含む政治改革4法案が可決成立した。2月に細川内閣は、消費税を衣替えして目的税化する「国民福祉税」構想を唐突に打ち出したが、公表翌日に撤回に追い込まれて迷走、さらに当の細川首相の特定企業からの不明朗な多額借入金が表面化し、細川内閣は4月25日に総辞職に追い込まれた。その後、羽田孜( つとむ)内閣が後継内閣として組閣したが、政権内で内紛が起きて社会党が離脱した結果、2カ月の短命内閣となってしまった。今度は、 野党だった自民党が、宿敵のライバルだった社会党に連立政権を持ちかけ、そこに新党さきがけを加え、首相に社会党の村山富市を担いで、「自社さ連立内閣」 が誕生、わずか10カ月で「55年体制」に復帰し、想定外の村山富市内閣が誕生した。

年表

【選挙区制度の年表】


・1890年(明治23)小選挙区制(初の衆議院議員選挙)

・1902年(明治35)大選挙区制に改正

・1918年(大正7)小選挙区制に改正

・1924年(大正13)中選挙区制に改正

・1945年(昭和20)大選挙区制に改正

・1947年(昭和22)中選挙区制

・1956年(昭和31)小選挙区制への改正案が廃案

・1994年(平成6) 小選挙区制(比例代表並立制)

 
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