平成

香港の中国返還~一国二制度~

 
目次

1995年③(平成7年)

《中国・英》南京条約
《中国・英》南京条約

1842年、清国とイギリスの間で締結

press to zoom
香港の中国返還式典
香港の中国返還式典

press to zoom
《中国・英》南京条約
《中国・英》南京条約

1842年、清国とイギリスの間で締結

press to zoom
1/2
 
テキスト本文

1995年③(平成7) 香港の中国返還 〜一国二制度〜


かつてイギリスが統治していた香港(今の中国の特別行政区)と中国の関係は、第一次アヘン戦争が勃発した1840年にさかのぼり、アヘン(麻薬)の合法化を迫るイギリスが、清国を負かし、1842年の南京条約で、 香港島が清国からイギリスに割譲され、イギリスの永久領土となった。さらに、アロー号事件(第二次アヘン事件)で、1860年の北京条約により、中国本土の九龍半島の先端部が割譲された。その後、イギリス領となった2地域の緩衝地帯が注目され、1898年(明治31)に香港防衛のためと称して、7月1日から、九龍半島の付け根の部分にある広い道(界限街)より北、深圳河という川を境にその南、さらにランタオ島などの200余りの島嶼を含む土地を99年間租借し、新界(New Territories )と命名して99年間の租借が確定した。以後、香港島・九龍半島先端部・新界の3地域はイギリスの統治下に置かれ、沿岸部の広東省(州都は広州市)に近い治外法権の地の利から、第一次国共合作時代の1927年(昭和2)4月に蒋介石が裏切って共産党員を一掃すべく大量粛清した事件(四・一二クーデター)が上海で発生して広州に波及した時、直後の8月に共産党の周恩来らが独自の軍隊を持って報復のために武装蜂起(南昌蜂起)して失敗した時、広東省の勢力基盤を失った共産党が香港に広東省委員会を設立して基盤を移したため、英領香港は党の中央根拠地となる江西省瑞金とつながる秘密の革命司令基地ともなった。1941年(昭和16)12月に日本が占領、日本敗戦後は、中英談判は実らず、再びイギリスの植民地に復帰し、イギリスが老朽した新界の九龍城を取り壊そうとして反英暴動となった。以降も、イギリス領土であった香港は、アジアにおける特異な存在としてアジアの金融センターとして繁栄した。1898年(明治31)から租借期限の1997年(平成9)が近づくに従い、香港の前途に不安が生じ、返還まで18年に迫った1979年(昭和54)に、香港総督が初めて北京を訪問した。中国側に香港の帰属をめぐる協議を提案したが、「いずれ香港を回収する」と表明する中国側と協議がなされることはなかった。3年後の1982年(昭和57)9月に「鉄の女」と呼ばれた女性首相マーレット・サッチャーが訪中し、英中交渉が開始されることになった。同年6月に アルゼンチンとの領土紛争(フォークランド紛争)で勝利して強気であったサッチャー首相に対し、イギリスは租借期間が終了する新界のみの返還のつもりだったが、イギリスの永久領土と考えていた香港島・九龍半島の返還も、強硬に返還すべしとする鄧小平に「鉄の女」が折れ、2年後の1984年(昭和59)12月19日、中英連合声明が発表され、1997年(平成9)7月1日、香港の主権は中国に返還され、香港は中国の特別行政区とされ、さらに50年間(2047)は香港の高度の自治を認める「一国二制度」が採用されると約束されたが、この約束に不安になった香港人の多くが、イギリス連邦内のカナダ・オーストラリアに移住した。1997年(平成9)6月30日の期限の日、香港の中国返還式には、イ ギリスからチャールズ皇太子、トニー・ブレア首相、中国から江沢民首相、李鵬国務院総理が出席、式典は30日深夜0時をまたいで行われ、24時直前にイギリス国歌でイギリス国旗が降され、7月1日午前0時、中国国歌に合わせて中国国旗が掲揚された。

年表
 
日本と世界
《首相訪中》村山首相と江沢民国家主席
press to zoom
《香港・イギリス》エリザベス女王の郵便切手
press to zoom
《香港》「リンゴ日報」創刊号
press to zoom
1/1
時の政治
 
村山富市首相
press to zoom
1/1
女性史
 
在任中のマーガレット・サッチャー英首相
press to zoom
1/1
 
TOPICS
日本初の地ビールの発売
press to zoom
1/1