
平成
住専国会
1996年①(平成8年)
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1996年①(平成8) 住専国会
1980年代後半に、銀行業(間接金融)と証券業(直接金融)の垣根を取り払い、両者の競争を促す金融政策が模索され、業際的な「私募債 (しぼさい) 」が発案されるなど、大手銀行の競争は激しくなり、大手の母体銀行が出資して「住宅金融専門会社」(住専、じゅうせん)が設立された。ところが、持ち家志向を背景に、個人の住宅ローン市場が急拡大すると、重複する住専の市場に掟破りの大手母体銀行が相次いで参入する事態となった。市場を失った 住宅金融専門会社は、より信用度の低い不動産関連業者向けの融資にのめり込むことに活路を求め、バブル経済のさなかの1990(平成2)3月には、大蔵省の金融行政で、銀行の融資額の「総量規制」が実施され、金融機関は「関連ノンバンク」と呼ばれる自行系列のファイナンス会社・住宅金融専門会社を融資の抜け道に、 融資を拡大、融資の総量規制の対象外にあった農林系金融機関でも住専会社に貸し込んでいった。ところが 後にバブルが崩壊し、地価下落がとまらない本格的な資産デフレが始まると、1995(平成7)には、阪神淡路大震災の被災地の兵庫県の兵庫相互銀行が破綻して 「みどり銀行」になるなど、銀行の破綻が新聞紙上をにぎわすことが多くなった。6月には連立与党が「プロジェクトチーム」を設置、8月に住専会社に大蔵省の異例の立ち入り検査が実施され、住専会社の総資産額 の50%に相当する6.4兆円の回収不能な不良債権を抱えている実態が判明した。住専会社の破綻は、母体となる出資銀行などの損失に跳ね返り、とりわけ政府系の農林中央金庫が絡んでいることは、不用意な破綻処理が金融パニックを招くと懸念されることとなった。 村山内閣は12月に破綻処理に伴う損失負担6.4兆円のうち、5.2兆円は当事者で負担し、農林系金融機関が負担できる上限金額を差し引いた6850億円については、 公的資金投入で解決する方策が閣議決定したが、1886 年(平成8)1月5日に村山内閣は総辞職し、後継内閣の橋本内閣が20日に招集した第136回通常国会(1月22 日~ 6月19日)に政府が住専処理に6850億円の公的資金(税金)を投入して処理する予算案を提出すると、国 会は紛糾した。新進党はピケ戦略で議会室を3週間にわたり封鎖、予算委員会は開くことができず、「住専国会」は空転した。その後も審議は保留状況が続いたが、 このまま放置するわけにもいかず、国会会期末の6月18日になって「住専法(通称)」が成立、破綻処理をする 「住宅金融債権管理機構」が設立された。バブル崩壊から6年目の負の遺産の後始末は、先に処理すべき大手 銀行・中小銀行などを後回しにし、先に金融スキャンダル続出の7つの住専会社に手をつけたため、その後の後始末に公的資金(税金)を使うことがタブーとなり、「失われた10年」という言葉が生まれる原因のひとつとなってしまった。
年表
【1996年(平成8)年表】
・1月 村山首相が退陣。社会党が社会民主党に改称
橋本内閣発足し、女性閣僚1人(法務大臣)
・2月 政府が住専処理に税金投入法案を提出
菅首相が血友病の薬害エイズ患者に謝罪
・4月 ハンセン病問題基本法が施行、らい予防法が廃止
・5月 【女】国立大初のジェンダー研究センター
( お茶の水女子大学に設置)
・6月 翌年4月の消費税5%決定
・8月 橋本首相、15日に「深い反省と哀悼 の意」を表明
・9月 新進党・社民党・さきがけの各党から参加で
「民主党」が誕生
・10月 衆議院議員総選挙(初の小選挙区比例代表並立制)
・11月 第二次橋本内閣が組閣
《世界の動き》
・1996年、パレスチナ自治政府議長にアラファト議長(1月)
・1996年、国連人権委員が従軍慰安婦問題で報告書提出(1月)
・1996年、中国軍が台湾周辺で軍事演習(2月)
・1996年、アジア欧州会議(ASEM)が開始(3月)
・1996年、フランスでリヨンサミット開催(6月)
・1996年、右翼が尖閣諸島に灯台を設置、中国抗議(7月)
・1996年、米・アトランタ五輪を開幕 (7月)
・1996年、包括的核実験禁止条約(CTBT)署名開始(9月)
・1996年、OECDが韓国の加盟承認(10月)
・1996年、南アが台湾と国交断絶、中国と国交樹立(11月)
・1996年、民主党クリントン大統領が再選される(11月)