
平成
アジア通貨危機
1997年①(平成9年)
1998年ソウル空港
テキスト本文
1997年①(平成9) アジア通貨危機
1997(平成9)は、日本の証券業界・銀行業界にとって暗黒の時代の幕開けとなった。暗躍する「総会屋」 に大手証券会社がこぞって利益供与した商法違反事件が発覚して代表権を持つ役員が総退陣となった。金融不安に加え、所得税減税の打ち切りや消費税が4月に 3%から5%に引き上げられて消費が落ち込んだ。海外の金融市場では、5月に米ドルに実質リンクする「ド ルペッグ制」採用のタイバーツが、タイ経済の減速にもかかわらず、割高に放置されていると評価したアメリカのヘッジファンド(高利回りを狙う投機筋、ハゲタカファンド)の猛烈な売り浴びせを受けて暴落、タイに進出していた日本企業が為替メリットを失ったことで工場を国外に移転するなど、負の影響が実物経済にも及び、当初はタイの中央銀行は自国通貨の防戦買いで対抗したが、資金力のある米系ヘッジファンドの前 にドル資金が細ってついに支えきれず、7月2日にドルペッグを放棄し、変動相場制に移行した。一国の中央銀行がヘッジファンドの攻撃を受けて敗退した大事件は、アジアの通貨市場に動揺を与え、「アジア通貨危機」は、インドネシア・マレーシアなどに波及、アジア各国の固定相場制が崩れ、ついに大波は韓国にまで波及した。その頃、バブル崩壊後の金融不安の渦中にあった日本経済では、11月に中堅証券会社が資金繰りに窮して戦後初の証券会社の破綻、バブル期に東京の不動産融資に積極的だった北海道の大手銀行が破綻、東北の宮城県でも「第二地銀」と呼ばれた地元銀行などが経営破綻した。また、明治14年創業の老舗証券会社で、四大証券のひとつだった山一證券が負債総額3兆円を抱えて自主廃業を大蔵省に届け出するに至り、アジア通貨危機が日本の金融危機と共振すると「日本発の世界金融パニック」に発展する危機に直面すると危惧した日本政府は、大手銀行に公的資金(税金)を投入する法律の「金融再生法」「金融早期健全化法」を制定、1998(平成10)3月に21の銀行に1兆8000 億円の公的資金を投入して資本増強を図り、ようやく日本の大手銀行の不良債権処理が本格的に始まることとなった。一方、アジア通貨危機で、経済破綻に追い込まれた韓国経済は、屈辱的なIMF国際通貨基金の管理のもと、危機直後の1998年(平成10)に金大中大統領は、ソフトバンクの創業者の孫正義に韓国経済の打開策を相談、孫は友人のマイクロソフト創業者のビル・ゲイツとともに会談し、「韓国が集中すべきは一にブロードバンド、二にブロードバンド、三にブロードバ ンド」とアドバイスし、その提言を受け入れて実行した韓国は、やがてブロードバンド先進国に生まれ変わることとなった。
年表
【1997年(平成9)年表】
・4月 消費税2%上げ5%に
「男女共同参画審議会設置法」が施行
・6月 臓器移植法が成立
女性初の事務次官(労働事務次官)が誕生
・9月 「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)
・10月 労働省婦人局が女性局に呼称変更
参議院創設50周年記念「女性国会」
・11月 北海道拓殖銀行、山一證券の大型破綻が続く
日本のワールドカップ初出場が決定
「少子社会を考える国民会議」
(厚生省・主催)が開催
・ 12月 新設予定の内閣府に男女共同参画会議の設置決定
《世界の動き》
・1997年、中国の最高実力者の鄧小平(92)死去(2月)
・1997年、新彊ウイグルでウイグル人の独立運動(2月)
・1997年、アメリカでデンバーサミット(6月)
・1997年、香港が英から中国へ返還(7月)
・1997年、アジア通貨危機(7月)
・1997年、ダイアナ英元皇太子妃が交通事故死(8月)
・1997年、米中共同声明-首脳間のホットライン設置(10月)
・1997年、韓国の大統領選挙で野党の金大中が当選(12月)
・1997年、京都議定書が採択される(12月)